焼け跡で聴いた明るい音――渡辺貞夫、93歳の文化功労者(連載「一心不乱の75年」第1回)
2026年10月23日、政府は今年度の文化功労者を発表し、その中にジャズのサックス奏者、93歳の渡辺貞夫の名前があった。今年の顕彰者でいちばんの年長であり、文化勲章を含めても、ジャズのサックス奏者が選ばれたのは初めてである。宇都宮の少年は、なぜ75年も吹き続けてきたのか。3回にわたってたどる。
「一心不乱に走ってきた」
発表の日、渡辺は「一心不乱に走ってきたことへのご褒美を頂戴した気持ち」というコメントを出した。続けて挙げたのは自分の才能ではなく、刺激を与えてくれた音楽家たち、長年の仲間とスタッフ、家族、そして自分の音楽を楽しんでくれる人々への感謝だった。
今年は渡辺にとって、音楽活動75周年の年にあたる。5月には2年ぶりのスタジオ・アルバム『BUT BEAUTIFUL』を出し、記念の全国ツアーを続けている。11月5日には、初めての自伝『ひとつの音 NOW’S THE TIME』が文藝春秋から出る予定だ。選出の知らせは、そうした節目の年のさなかに届いたのである。
75年前の1951年は、渡辺が宇都宮から東京へ出た年だ。そして同じ1951年には、文化功労者に年金を贈ることを定めた「文化功労者年金法」が公布されている。もちろん2つの出来事に関係はないが、18歳の青年が東京へ向かった年に生まれた制度が、75年後にその青年を選んだことになる。ここから先は筆者の見立てだが、この連載でたどるのは、その2本の線が交わるまでの道のりである。
映画館の暗がりで
渡辺貞夫は1933年2月1日、栃木県宇都宮市に生まれた。1945年7月12日の夜、宇都宮はB-29の焼夷弾による空襲を受け、JR宇都宮駅から東武宇都宮駅にかけての一帯がほぼ焼け野原になっている。その1か月後に戦争が終わったとき、渡辺は12歳だった。今回のコメントでも、終戦直後に聴いた明るい音楽に心をつかまれたことにふれている。
本人がのちに語ったところでは、中学に入ったころから、米軍の放送FENで流れるアメリカのポピュラー音楽やジャズに夢中になった。音楽はラジオからだけ来たのではない。1学年上の先輩の父親が、宇都宮の映画館「電気館」の支配人をしていて、渡辺はただで映画を見せてもらっていたという。
その中に、アメリカ映画『ブルースの誕生』があった。波止場で演奏する黒人のバンドに、少年が飛び入りしてクラリネットを吹く場面がある。それを見た渡辺は、どうしてもクラリネットが欲しくなった。市内の楽器店のショーウインドーに3,000円の中古の1本が立っていて、それを父親に買ってもらったと、渡辺は振り返っている。
公式サイトの略歴では、クラリネットを始めたのは1948年、15歳の年である。焼け跡の街に流れてきた明るい音を、少年は聴くだけでなく、自分で鳴らしたくなった。75年の歩みは、この1本の中古のクラリネットから始まったのだ。
18歳、東京へ
1951年、渡辺は高校を卒業して上京し、アルトサックスで本格的に音楽の仕事を始めた。
とはいえ、最初からジャズの舞台に立てたわけではない。本人の回想によれば、上京して間もないころは、銀座のダンスホールやキャバレーでクラリネットを吹く仕事が多かった。ジャズを演奏するためではなく、客が踊るための音楽を吹いて暮らしを立てていたのである。
それでも、東京には宇都宮にはない出会いが待っていた。のちに渡辺の留学の背中を押すことになる、秋吉敏子との出会いである。
秋吉敏子のカルテット
1953年、20歳の年に、渡辺は秋吉敏子のコージー・カルテットに加わった。翌1954年には「モカンボ・セッション」と呼ばれるジャム・セッションに参加し、これが渡辺にとって初めての録音になった。
転機は1956年に来た。秋吉がアメリカへ渡ったあと、渡辺がコージー・カルテットのリーダーを引き継いだのである。1958年にはジョージ川口が率いるビッグ・フォーに加わり、1959年には『スイングジャーナル』誌の人気投票で、アルトサックス部門の1位に選ばれた。
上京からわずか8年で、渡辺は日本のジャズのアルトサックス奏者として、読者の投票でいちばん上に立ったことになる。1961年には、初めてのリーダー・アルバム『渡辺貞夫』も出した。
1位の男が、学生に戻る
ところが翌1962年、29歳の年に、渡辺はアメリカ・ボストンのバークリー音楽院に入学した。
人気投票で1位になり、自分の名前のアルバムを出したばかりの奏者が、なぜ学校に入り直したのか。留学のいきさつは、ここでは本人の自伝を待ちたい。手がかりになるのは、西田浩が2019年に出した『秋吉敏子と渡辺貞夫』(新潮新書)である。この本は留学を扱う章に「ナベさん、バークリーで勉強してみない?」という題をつけ、「秋吉敏子からの誘い」という節を立てている。先にアメリカへ渡った秋吉からの誘いが、留学のきっかけの1つだったことがうかがえる。
ここから先は筆者の仮説だ。いちばん上に立ったとき、人はそこにとどまる理由をいくらでも見つけられる。しかし渡辺は、居場所ができたところで、もう一度ゼロから学ぶ側に回った。「一心不乱」という言葉は、ただ休まずに吹き続けたという意味だけではないのだろう。手に入れたものを手放してでも、知らない音のほうへ進むことも含んでいたのではないか。
焼け跡で聴いた明るい音にあこがれた少年は、29歳で、その音が生まれた国へ渡った。次回は、ボストンで学んだものを渡辺がどう持ち帰り、どうやって「世界のナベサダ」になっていったかをたどる。
続き:第2回「ボストンからの帰り道」 https://mokujinosite.com/2026/10/29/2026-10-28_2/
ボストンの学生生活、ボサノヴァのブーム、単身で乗り込んだニューポート、そして初めてのケニア。1978年の『CALIFORNIA SHOWER』と、日本武道館に3万人余りを集めた夜まで、渡辺貞夫が「世界のナベサダ」になるまでの20年をたどる。
連載「一心不乱の75年」
- 第1回 焼け跡で聴いた明るい音――渡辺貞夫、93歳の文化功労者(この記事)
- 第2回 ボストンからの帰り道――渡辺貞夫、「世界のナベサダ」になるまで https://mokujinosite.com/2026/10/29/2026-10-28_2/
- 第3回 93歳の「終わりのない旅」――渡辺貞夫、75周年の年に https://mokujinosite.com/2026/10/29/2026-10-28_3/
あわせて読みたい
- 倉本聰の連載「追悼・倉本聰」 https://mokujinosite.com/2026/10/02/2026-10-02_1/
- 伊東四朗の連載「観させていただき、聴かせていただきます」 https://mokujinosite.com/2026/10/12/2026-10-12_1/
新しい記事は、Xでお知らせしている。寝ても覚めてもエンタメ天国 a.k.a.エンゴク https://x.com/wannabeacking