「すべてに落っこちて」──面接全敗の青年が、ベンジャミン伊東になるまで
連載「観させていただき、聴かせていただきます」全3回 第1回(この記事)|第2回|第3回
2026年10月1日、伊東四朗は、90歳の誕生日にあたる2027年6月15日をもって芸能界を引退すると発表した。文化放送の『伊東四朗 吉田照美 親父・熱愛』も、2027年6月12日の放送で終わる。伊東四朗の軌跡を全3回の第1回です。
2026年10月1日、ひとりの喜劇役者の公式サイトに、短い文章が載った。
書き出しは、70年前の春だ。昭和31年(1956年)、高校を卒業するときに受けた就職試験に、ひとつ残らず落ちた。本人はそれを、こう書いている。
「すべてに落っこちて」
失意のなかにいた自分を、芸能界がかすかに手招きして入れてくれた。その後の歳月を、伊東は「何とか69年」と書いている。そして、来年の6月15日に90歳を迎えること、その日をもって引退することを告げていた。
89歳の引退の挨拶が、18歳の不合格から書き起こされている。
不採用の通知を何通も受け取ったことのある人は、少なくないと思う。どこが悪かったのか、誰も教えてくれない。それでも次の面接の日はやってくる。面接室を出たあと、自分の顔つきや声の調子まで疑い始める。
伊東四朗は、その理由を自分の顔だと考えていた。この回は、面接に落ち続けた青年が、こたつの上で踊る男になるまでを追う。
この回の年表 その年、あなたは何歳だった?
面接で、顔を見られた
伊東は1937年、東京・下谷(現在の台東区)の洋服店に生まれた。
勤め人になるのが親孝行だろうと考えて、就職試験を受けた。ところが、ことごとく落とされた。
見かねた友人が、自分の親の会社を紹介してくれた。いわゆるコネである。そこでも面接で、人相が悪いと言われて落とされた。
コネがあるのに落ちたときは、さすがに自分の顔を恨んだ。伊東は2018年の取材で、そう振り返っている。
不採用の理由が本当に顔だったのかは、本人の受け止め方でしかなく、確かめようがない。ただ、本人はそう信じていた。1997年に出した著書の題は『この顔で悪いか!』だった。
客席で、顔を覚えられた
就職をあきらめた伊東は、大学の生協でアルバイトを始めた。
そのころ足しげく通ったのが、歌舞伎座とストリップ劇場だった。ストリップといっても、目当ては踊りの合間に演じられる軽演劇のほうだった。
通ううちに、劇場の人たちに顔を覚えられ、楽屋に呼ばれるようになった。やがて喜劇役者の石井均が新しい一座を旗揚げすることになり、その座員から誘われた。21歳のときだ。1958年、劇団「笑う仲間」に研究生として加わった。
面接室では落とされた顔が、劇場の客席では覚えられた。同じ顔が、置かれた場所によって、まったく違う働きをした。
芝居との縁は、それより前からあった。戦時中、一家は静岡県の掛川に疎開していた。そこへ戦地から戻った13歳上の兄がアマチュア劇団をつくり、伊東もその舞台に立った。
座員には映画館の館主がいて、ただで映画を見せてくれた。チャップリンやハロルド・ロイドの喜劇映画を、食い入るように見たという。
トリオの3番目の男
「笑う仲間」はまもなく「石井均一座」に変わり、その一座もやがて解散する。伊東はその後、三波伸介、戸塚睦夫と組んだ。のちの「てんぷくトリオ」である。
結成の年は、資料によって分かれている。文春オンラインは、1961年に「ぐうたらトリオ」として結成し、のちに改称したとする。
『20世紀日本人名事典』は1962年としている。週刊女性のプロフィール欄は1963年だ。どれが正しいかは、ここでは決められない。
トリオは日本テレビの『九ちゃん!』に呼ばれ、世間に知られるようになった。番組のプロデューサーは厳しく、踊りに英語の歌、バイオリンまでやらされた。
音楽の素養などない。子どもが生まれたばかりで、アパートで練習すると赤ん坊が泣く。妻に外でやってくれと言われ、裏の墓場で弾いたという。
それでも、トリオのなかの伊東は脇だった。文春オンラインは、当時の伊東を“トリオの3番目の男”と書いている。一部では才能を認められながらも、なかなかパッとしなかった、と。
「伊東さんはこたつの上で踊ってくれ」
転機は、40歳になる前後にやってきた。
1975年4月、TBSで『笑って!笑って!!60分』が始まり、翌1976年10月には『みごろ!たべごろ!笑いごろ!!』が始まった。伊東はどちらでも小松政夫と組んでいる。2人は正式なコンビではなかったが、多くの視聴者が名コンビと受け止めていた。
『みごろ!』はNET(現・テレビ朝日)系の番組で、人気絶頂のキャンディーズと、伊東、小松という取り合わせが話題になった。
ベンジャミン伊東は、ここで生まれた。本人によれば、稽古をする時間などなく、キャンディーズも小松も即興で演じていた。キャラクターも、制作スタッフから、今度は電線軍団というものをつくる、キャンディーズと小松を入れると告げられたうえで、こう頼まれて誕生したという。
「伊東さんはこたつの上で踊ってくれ」
丸投げだった、と本人は笑っている。
すぐ終わると思った番組は1年半続き、PTAからは俗悪番組と叩かれた。子どもたちは、こたつの上に乗って真似をした。美空ひばりからは、子どもが真似をするのでやめてほしいと言われたという。
何かのパーティーのとき、エレベーターで一緒になった藤田まことは、伊東の腕をつかみ、大丈夫かと本気で心配した。大先輩をだませているのだと自信になった、と伊東は振り返っている。
損をしたと思っていたこと
面接で落とされた顔は、テレビのなかで、誰もが知っている顔になった。
伊東は2018年の取材で、この顔のことを何度も口にしている。怖い人相のせいで就職には失敗したが、この世界に入ってからは顔を覚えてもらえたし、面白がってもらえた。人生の損得勘定はうまくできている、と言ったうえで、こう続けた。
「損したと思っていたことで、得することがあるんですから」
ここから先は筆者の読みだ。伊東は、顔という弱みを直さなかった。直しようもなかった。
変わったのは、その顔が置かれた場所のほうだ。面接室では落とされる理由になり、劇場の客席では覚えられる理由になり、こたつの上では笑われる理由になった。
2026年10月1日の文章に戻る。すべてに落ちた18歳を、芸能界がかすかに手招きしてくれた、と伊東は書いていた。手招きした側が見ていたのも、たぶん同じ顔だったのだろう。
電線音頭の人気がまだ冷めないころ、伊東のもとに真面目なドラマの出演依頼が届く。役は、警察官だった。次回は、同じ顔が『おしん』の父になるまでを書く。
次の回 ▶ 第2回 「電線音頭をやった人が不思議でしたね」──伊東四朗が『おしん』の父になるまで
連載「観させていただき、聴かせていただきます」全3回
- 第1回 「すべてに落っこちて」──面接全敗の青年が、ベンジャミン伊東になるまで(この記事)
- 第2回 「電線音頭をやった人が不思議でしたね」──伊東四朗が『おしん』の父になるまで
- 第3回 「黙ってやめるのもひきょうなので」──伊東四朗が自分で決めた幕引き
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