「黙ってやめるのもひきょうなので」──伊東四朗が自分で決めた幕引き
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2026年10月1日、伊東四朗は、90歳の誕生日にあたる2027年6月15日をもって芸能界を引退すると発表した。文化放送の『伊東四朗 吉田照美 親父・熱愛』も、2027年6月12日の放送で終わる。伊東四朗の軌跡全3回の第3回です。
2026年1月、週刊女性に、88歳の伊東四朗のインタビューが載った。
聞き手は、90歳の目標を尋ねる質問を用意していた。けれども、聞くのをやめた。今を生きている人にそんな先のことを聞くのは、1年後の天気を予想するくらいわからないことだから、と記事は結ばれている。
それから5か月ほどたった6月15日、89歳の誕生日。伊東は所属事務所に、来年は90歳で区切りがいいから、そこで引退したいと申し入れた。事務所の担当者によれば、伊東はこう相談したという。
「1年後こういう風にしたいんだ」
1年後の天気は、本人が決めていた。
引退で有名
2026年10月3日、土曜日の午後3時。引退の発表から2日後の『親父・熱愛』は、冒頭からその話題になった。
伊東は、ここ2、3日の騒ぎを自分でこう言い表した。
「引退で有名」
各紙が大きく取り上げたことに驚き、これでもう1回引退するという手は使えなくなった、と冗談を言った。共演の水谷加奈アナウンサーが、映画にはファイナルアゲインという手がありますよと助け舟を出すと、それはいいと笑った。
放送のあと、伊東は局で約50人の報道陣の前に立った。「うわー、驚いた。有名人になったみたい」とおどけてポーズを取り、会見はいきなり盛り上がった。
引退の理由を聞かれると、若いころから90になったらやめようと思っていた、と答え、こう続けた。
「黙ってやめるのもひきょうなので」
妻は賛成してくれ、3人の息子も、それがいいとすぐに決まったという。引退したら、55歳から75歳まで約20年続けたテニスをもう一度やってみたい。これからはいいじいさんになる、とも話している。
先に逝った相方たち
てんぷくトリオの3人のうち、最初にいなくなったのは戸塚睦夫だった。『20世紀日本人名事典』によれば、1973年に病気で亡くなり、その後は三波伸介と伊東の2人で出演を続けた。
『新撰 芸能人物事典 明治~平成』などの人名事典によれば、三波伸介は1982年12月8日、心臓発作で倒れ、52歳で亡くなった。伊東は45歳だった。
トリオのあと、伊東の隣にいることが多かったのは小松政夫だ。2人は正式なコンビではなかったが、多くの視聴者は名コンビと受け止めていた。その小松も、2020年12月7日に78歳で亡くなった。
トリオの2人を早くに失い、長く隣にいた小松も見送った。伊東は、舞台にひとり残った人でもあった。
東京の軽演劇を
2004年、伊東を座長に、三宅裕司を中心とした喜劇人たちが集まって「伊東四朗一座」を旗揚げした。客が心の底から面白いと思える東京の軽演劇を上演し、東京の笑いを受け継ごうという一座だった。
伊東が参加できないときも続けられるよう、2006年には三宅を座長に「熱海五郎一座」が旗揚げされた。伊東ならぬ熱海、四朗ならぬ五郎という洒落で、三宅が名付けた。
2023年6月、熱海五郎一座の翌年の新橋演舞場公演に、伊東がゲストで出ることが発表された。発表によれば、伊東が演舞場の舞台に立つのは、これが初めてとなる。2024年6月の公演は、伊東をゲストに迎えて上演された。
伊東はこのとき、毎年客席でこの一座の公演を観ているとコメントしている。前の席の夫婦が、結局熱海五郎という人はどこに出てきたのかと話していたことがあった。説明しようと思ったが、やめておいたという。三宅のコメントは、伊東をこう呼んでいた。
「最後の東京喜劇人」
2025年5月には、菊田一夫演劇賞の特別賞を受けた。客席に3人ほどしかいないときもあったが、劇場が開いていてベルが鳴ったら舞台をやるのが鉄則だった、と伊東は87歳のときに語っている。
土曜の午後3時
文化放送で自分の番組『伊東四朗のあっぱれ土曜ワイド』を始めたのは、本人によれば47歳のときだ。
ラジオの面白さは今にある、と伊東は話している。今入ってきた情報を、エンターテイナーとしてどう笑いに持っていくか。それは生放送でないとできない、と。
1997年4月、『伊東四朗 吉田照美 親父・熱愛』が始まった。60歳を目前にした伊東と吉田照美の、年の差コンビのトーク番組だった。文化放送によれば、通算の放送回数は2026年10月3日の放送で1493回になる。
88歳を迎えても、毎週土曜の午後3時から2時間、リスナーの投稿に耳を傾けてきた。年寄りが今の世の中を知るのは難しいから、とにかく聞こうという姿勢が大切だ。知りもしないで違和感があると言ったら、とたんに年寄りになってしまう。伊東はそう話している。
フェードアウトのはずだった
伊東は、自分の引き際について、何度か語っている。
2017年の文春オンラインの記事によれば、笹山敬輔の著書『昭和芸人 七人の最期』には、2015年、78歳の伊東のこんな言葉が載っている。
「私の理想はフェードアウト」
引退しますとは発表しない。「最近出ないね、あの人」「ああ、なんか辞めたみたいだよ」と言われるのがいちばんいい、と。
2018年の取材でも、いつの間にかいなくなっているのが理想だと話している。ただ、妻からはこう言われているとも明かした。自分から積極的に仕事をやめるのは駄目だ、と言われたうえで。
「お父さんは、引退したら腑抜けになってしまう」
86歳のときには、元気にあと10年はやらせていただいて、と話していた。
そして2026年。事務所によれば、伊東は前々から、衰えて人に迷惑をかけるようなことがあれば遠慮なく言ってくれ、と話していた。6月の誕生日に引退を申し入れ、10月1日に公式サイトに載せた文章では、眼、耳、脳、腰、膝のすべてが急速に衰えたこと、ドラマの撮影でスタッフやキャストに迷惑をかけることになったことを挙げた。10月3日の会見では、若いころから90でやめようと思っていたと語った。
これらの言葉は、きれいにはつながらない。どれが本心だったのかは、ここでは決められない。
ここから先は筆者の読みだ。フェードアウトを理想としていた人が、最後は自分で期日を告げた。期日を告げた理由として本人が挙げたのは、黙ってやめるのはひきょうだ、という一言だけだった。筆者には、それが見てきた側への礼儀のように聞こえる。
終わりを手渡された側は
好きだった人のすごさに、訃報で初めて気づく。有名人との別れは、たいていそういう順番でやってくる。このサイトでも、脚本家・倉本聰の追悼連載を書いたばかりだ。追悼の言葉は、本人には届かない。
伊東は、終わりの日を自分で告げた。だから、まだ間に合う。
『親父・熱愛』は、毎週土曜の午後3時から放送している。最終回の2027年6月12日まで、休止や特番がなければ、残りは35回。
1年後の天気
1月の週刊女性の聞き手は、90歳の目標を聞かなかった。1年後のことは誰にもわからない、と考えたからだ。
その5か月後、伊東は自分で1年後を決めた。2027年6月15日、火曜日。その日、伊東は90歳になる。
引退の文章の終わりに、伊東は「観させていただき、聴かせていただきます」と書いた。それまでの8か月は、こちらが観て、聴く番だ。
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連載「観させていただき、聴かせていただきます」全3回
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- 第2回 「電線音頭をやった人が不思議でしたね」──伊東四朗が『おしん』の父になるまで
- 第3回 「黙ってやめるのもひきょうなので」──伊東四朗が自分で決めた幕引き(この記事)
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