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エンタメ

倉本聰?「たいしたやつじゃありませんでした」──部長にそう報告したのは、本人だった

による 寝ても覚めてもエンタメ天国 a.k.a.エンゴク
2026年10月2日 1分で読める
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連載「追悼・倉本聰」全3回 第1回(この記事)|第2回|第3回


ある日、ニッポン放送の若い社員が部長に呼ばれた。

近ごろテレビで、倉本聰という若い脚本家の名前をよく見かける。ラジオでも使えないか、一度会って様子を見てこい──。用件をかいつまむと、そういうことだったらしい。

社員は局の外の喫茶店に入り、しばらく時間をつぶしてから戻って、部長にこう報告した。

「たいしたやつじゃありませんでした」

会えるはずがなかった。社員の本名は山谷馨(やまや・かおる)。倉本聰は、彼が会社に内緒で使っていたペンネームだ。部長は、よその若手を探してこいと、その若手本人に命じていたことになる。山谷はそれからまもなく、4年勤めた局を辞めてフリーの脚本家になった。

2016年に、倉本自身が雑誌の取材で明かした話だ(週刊女性)。脚本家の若いころの逸話として、これほどできすぎた話もそうない。

ただ、この話を素直に笑えない人もいると思う。

会社では本名で、〝社員の自分〟として働いている。本当にやりたいことは、別名義のアカウントや副業で、夜中や週末にこっそり続けている。そもそも今の会社は第一志望ではなかったし、希望の部署にも行けていない。自分はいま回り道をしているんじゃないか、という焦りが消えない。

そういう人にとって、喫茶店でひとり時間をつぶしている山谷馨は他人事ではないはずだ。

2026年9月18日、倉本聰が亡くなった。91歳だった。28日に倉本財団が公式サイトで公表している(映画.com)。『北の国から』や『前略おふくろ様』の脚本家として語られることの多い人だが、この連載の1回目は、彼がまだ山谷馨だった4年間から始めたい。テレビに最も厳しかった脚本家の一人は、ラジオ局の出身だった。

第一志望は、テレビだった

倉本が東京大学文学部美学科を卒業して、ニッポン放送に入社したのは1959年だ(映画.com)。

この年、フジテレビが開局している。テレビという新しいメディアにひかれた倉本は、その採用試験を受けた。ところが入ることになったのは、フジテレビに出資していた系列のラジオ局、ニッポン放送のほうだった(週刊女性)。自分で選んだというより、振り分けられた就職先だった。

今ふうに言えば、志望していた会社には入れず、同じグループの別の会社に採用された、というところだろう。フジテレビが開局したまさにその年に、若い山谷は、その隣にあるラジオ局に置かれた。

本人がこのときどう感じたのかはわからない。少なくとも希望どおりではなかった。

面白いのは、後年の倉本が、このことをむしろよかったと語っていることだ。2016年の取材では、テレビ局の中に入っていたら脚本家としての自分は生まれていなかった、という趣旨のことをはっきり語っている(週刊女性)。

テレビ局ではだめだった理由を、倉本はこの取材で細かく説明していない。ただ、当時の状況を考えれば見当はつく。テレビ局の社員になれば、番組を作ること自体が仕事になる。脚本を書くとしても、局の中で、局の都合に合わせて書くことになっただろう。

ラジオ局の社員だったから、テレビの脚本は〝仕事の外〟に置くしかなかった。誰にも頼まれず、誰の許可も取らず、本名とは別の名前で書く。後年の本人の振り返りも、そう考えると筋が通る。

昼は山谷馨、夜は倉本聰

昼間の山谷馨は、ラジオ番組を作っていた。2016年の取材によれば、アシスタントディレクターとして働いていたという(週刊女性)。

ラジオには絵がない。聴いている人の頭に景色を浮かばせるには、音を使うしかない。若い山谷は、場面に合う効果音を探してあちこちを駆け回り、同世代の寺山修司と組んでドラマを作ったこともあったという(同)。

足音ひとつで、それが誰の、どんな気分の足音なのかを伝えなければならない。説明のセリフを足せば話は早いが、聴き手の想像はそこで止まってしまう。音だけで場面を立ち上げるという、ラジオの作り手が毎日向き合う問題に、山谷は会社の仕事として向き合っていた。

夜になると、もう一つの名前に切り替わる。仕事を終えて遅くに帰宅し、そこから午前3時まで、テレビドラマの脚本を書いた。会社はアルバイトを禁じていたから、このことは秘密だった(同)。

二つの仕事を抱えた日々について、倉本はのちに、神経が参りかけるほど体を酷使したと振り返っている。それでも書くのが楽しくてしかたなく、自分の書いたものが本当に放送されるのはうれしかったという(同)。

1963年には、倉本が自分で日本テレビに企画を持ち込んだホームドラマ『現代っ子』が始まり、視聴率30%を超える当たり番組になった(同)。週刊女性の記事では、部長に呼ばれた逸話は、この『現代っ子』のヒットに続けて語られている。

ラジオ局の部長が、テレビで目立ってきた若手脚本家に目をつけた。その脚本家は自分の部下だった。部下は外で時間をつぶし、自分で自分を査定して、たいしたやつではないと報告した。喫茶店の場面は、そういう構図になっている。

倉本がニッポン放送を辞めたのは1963年、入社から4年後のことだ(映画.com)。山谷馨と倉本聰の二重生活は、あの報告からまもなく終わった。

会社員・山谷馨は、倉本聰に何を渡したのか

本名で働きながら別の名前で何かを続けていると、どちらが本当の自分なのか、会社にいる時間はただの回り道なのではないか、と考えることがある。

倉本の4年間を「回り道だったが、結果的に正しかった」とまとめるのは簡単だ。ただ、それは結末を知っている側の言い方で、本人もそういう総括はしていない。倉本がよかったと言ったのは、ラジオ局に回されたことについてだ。4年間の会社員生活を〝正しい回り道〟と振り返ったわけではない。

それより気になるのは、会社員・山谷馨の4年間が、倉本聰に具体的に何を渡したのかだ。

一つは、すでに書いた〝会社の外〟という書く場所。もう一つは、音だけで、姿の見えない相手の頭の中に景色を描く技術だ。昼の山谷馨が会社の仕事として覚えたことを、夜の倉本聰はそのまま使っていたと考えられる。

純は、誰に話しかけていたのか

ここから先は筆者の仮説だ。

ラジオは、ちょっと不思議なメディアだ。何万人に向けて放送していても、パーソナリティは「あなた」に話しかける。聴いている側も、自分ひとりに話しかけられているように感じる。マイクの前には誰もいないのに、話し手はたしかに誰かに向けて話している。

倉本のドラマには、これとよく似た声が流れている。ナレーションだ。

『前略おふくろ様』(日本テレビ、1975〜77年。第1部・第2部)では、東京で板前修業をしているサブ(萩原健一)が、故郷の母(田中絹代)に向かって語りかけるナレーションが、ドラマの背骨になっていた(サライ.jp)。サブが語りかけるとき、母はその場にいない。サブの声は、周りの誰の耳にも届いていない。それでもサブは、遠くにいるひとりに向けて話しつづける。タイトルからして手紙の書き出しだ。

『北の国から』では、父の五郎に反発していた純(吉岡秀隆)が、やがて胸の内で父に語りかけるようになる(碓井広義編『倉本聰の言葉』、サライ.jp)。胸の内の語りかけだから、その声は五郎本人には届かない。

テレビドラマなのに、いちばん大事な気持ちが声で語られ、しかもその声は、聞かせたい相手に届かない形で発せられる。ラジオ局で4年間、姿の見えない聴き手に向けて番組を作っていた人が書いたものだと思うと、偶然とは片づけにくい。

倉本自身の言葉にも手がかりがある。

2017年の暮れ、倉本は日刊ゲンダイの取材で、その年のテレビについて話している。ある政治スキャンダルの報道で、映像がないまま音声だけが繰り返し流されたことがあった。倉本は、あれはある種のラジオドラマだったと言う。声を聞いた人はそれぞれ、頭の中に人物の顔や様子を思い描いた。そこには、ドラマが本来持っている面白さがあった、と。

そのうえで倉本は、いまのテレビは何でも説明しすぎて、

「耳から入る情報が頭の中で像を結ばせる楽しみ」

を殺してしまっている、と嘆いた(日刊ゲンダイ)。テレビの黎明期には、ながら見でもわかるドラマを作れという声があり、向田邦子や山田太一、そして自分は、見る人の手を止めさせる作品を作ろうと反発した、とも語っている(同)。

ドラマの面白さを説明するのに、テレビの脚本家として半世紀以上を生きた人が持ち出したのは、ラジオだった。効果音を探して走り回っていた若い山谷馨と、この言葉はつながっているように思える。

筆者が確認した雑誌・ウェブ記事の範囲では、倉本ドラマのナレーションを、ラジオ局での4年間と結びつけて論じたものは見つからなかった。だから仮説は仮説のままにしておく。試してみる方法は簡単で、それは最後に書く。

テレビを叱りつづけた人は、テレビの外から来た

晩年の倉本は、テレビに厳しい人として知られていた。

1984年、倉本は私財を投じて、脚本家や俳優を育てる私塾「富良野塾」を開いた。2016年の取材では、その動機を二つ挙げている。自分はテレビに育てられたのだから恩返しをしたかったこと。そして、儲けているのに役者も書き手も育てようとしない今のテレビへの怒りだ(週刊女性)。

塾で倉本は、「創」と「作」を分けて語った。前例にもとづき、知識とお金でつくるのが「作」。お金がなくても、知恵で前例のないものを生み出すのが「創」。塾生には、創をやろうと話していた(同)。前例や事情を盾に話を止める言葉は、塾では禁句だったという(同)。

自分はテレビに育てられたと言いながら、そのテレビに遠慮なく物を言いつづけた脚本家は、ほかにあまり思い当たらない。

倉本は、テレビ局に籍を置いたことが一度もなかった。最初の4年間はラジオ局の会社員で、テレビのために書きつづけながら、テレビの内側には住まなかった。テレビ局に入れなかったことが、テレビを外から叱る目を残したのだと思う。

一度だけ、目を閉じて

山谷馨は部長に、倉本聰はたいしたやつではないと報告した。正体を隠すためのとっさの言い逃れと読むのが普通だろう。ただ、半分は本音だったのかもしれない。

局を辞めてフリーになった倉本は、日活や東映の映画、テレビドラマ、アニメと、ジャンルを選ばずに書いた。その一方で、自分の脚本は構成が弱いと自覚していた。黒澤明や小津安二郎の映画シナリオを読み込み、起承転結に分解しては、またシナリオの形に組み直す。そういう練習をずいぶん繰り返したという(週刊女性)。

業界で倉本の名前が注目されるようになった一本として、メディア文化評論家の碓井広義は、退社から4年後の時代劇『文五捕物絵図』(NHK、1967年)を挙げている。複数の脚本家と競い合うように書いた作品だった(現代ビジネス)。映画監督の大根仁も、インタビュー集『ドラマへの遺言』の書評で、同書に描かれたニッポン放送入社から独立後にかけての下積みの時期に触れている(文春オンライン)。

あの日の倉本聰は、本人の査定どおり、まだ〝たいしたやつ〟ではなかった。

『北の国から』を見る機会があったら、一度でいいので目を閉じてみてほしい。画面は見ずに、純の声だけを聴く。富良野の景色は、見えなくても浮かんでくるはずだ。そのとき聞こえている声が誰に向けられているのかを、ラジオ局の会社員だった人が書いた声として聴いてみてほしい。

局を4年で辞めた倉本は、フリーになって10年目に、NHKの大河ドラマを任される(週刊女性)。そしてその仕事の途中で、今度は東京そのものを出ていくことになる。次回は、その話を書く。


次の回 ▶ 第2回 札幌行きの飛行機から『北の国から』へ──倉本聰と「爆弾発言」の見出し

連載「追悼・倉本聰」全3回

  1. 第1回 倉本聰?「たいしたやつじゃありませんでした」──部長にそう報告したのは、本人だった(この記事)
  2. 第2回 札幌行きの飛行機から『北の国から』へ──倉本聰と「爆弾発言」の見出し
  3. 第3回 「夜になったら眠るンです」──電気のない家で五郎が答えた一行と、『北の国から』の45年

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