「夜になったら眠るンです」
電気のない家で五郎が答えた一行と、『北の国から』の45年
連載「追悼・倉本聰」全3回 第1回|第2回|第3回(この記事)
2026年8月9日、北海道富良野市の富良野演劇工場で「北の国からスペシャルコンサート」が開かれた。320席の客席は、販売開始から1時間で埋まっていた。開演の拍手のあと、場内はすぐに暗転した(ORICON NEWS)。
暗闇のなかに、子役時代の吉岡秀隆が演じる純の声が流れた。電気のスイッチを探している。父親に連れられて東京から移ってきた家に、電気が来ていないと知ってうろたえる場面だ。夜はどうするのかと叫ぶ純に、田中邦衛が演じる五郎の声が答えた。
「夜になったら眠るンです」
1981年に始まったドラマ『北の国から』の、第1話の一場面である。
この連載の第1回の最後に、『北の国から』を見る機会があったら一度だけ目を閉じて、純の声だけを聴いてみてほしいと書いた。ラジオ局の会社員だった人が書いた声として聴いてほしい、という仮説だった。この日の客席は、暗闇のなかで、図らずもそれをしていた。
五郎の一行は、電気のない暮らしに戸惑う子どもに、父親が返した答えだ。暗くなったら眠る。五郎にとって、それは暮らしのごく当たり前の順番で、それ以上の説明はいらなかった。このステージには、脚本を書いた倉本聰が朗読で予告なく登場し、客席の拍手はなかなか鳴りやまなかった(ORICON NEWS)。
その2週間ほど前の7月27日、倉本は富良野の森のアトリエで、週刊文春の取材に応じていた。鼻に酸素のチューブをつけ、ときおり息を整えながら、第1話で純が電気も水道もない暮らしに驚く場面は『ロビンソン・クルーソー』から着想したのだと話している。取材の時点でも、倉本は創作を続けていた(週刊文春)。2024年には、構想60年という映画『海の沈黙』の脚本も手がけている(マイナビニュース)。
2026年9月18日、倉本は91歳で亡くなった。『北の国から』の第1話が放送されたのは、1981年10月9日、金曜の夜10時だった(現代ビジネス)。2026年10月9日は、そこからちょうど45年にあたる。
電気も水道もない家
『北の国から』の放送が始まったのは、バブル景気が始まる少し前のことだ。世の中が豊かさと便利さに向かっていくなかで、五郎と純、螢の3人は、電気も水道もない家で暮らし始める。週刊文春はこのドラマを、好景気に浮かれる時代に、貧しくても幸せに生きる道があると示した作品として位置づけている(週刊文春)。
東京で暮らしていた五郎は、妻の不倫をきっかけに、2人の子どもを連れて故郷の富良野に戻る。主演は、それまで映画の脇役の印象が強かった田中邦衛で、連続ドラマを現地で撮り続けること自体が、当時は異例だったという(現代ビジネス)。子どもたちは新しい家に戸惑い、失敗を重ねながらたくましくなっていく(北海道新聞)。東京から来たばかりの純にとって、その家は何もかもが足りない場所に見えた。
純の不満に、五郎は理屈で言い返さない。夜は暗い。暗くなったら眠る。順番を入れ替えているのは電気のある暮らしのほうだ、とでも言うように、短く答えるだけだ。
倉本自身が、札幌を経て富良野に移り住んだのは1977年だ。住み始めたころ、あたりは荒れ果てた森で何もなかった、と倉本は7月の取材で振り返っている(週刊文春)。
倉本は、田中邦衛が亡くなった2021年、五郎で描きたかったのは、真面目にやればやるほど矛盾を抱えてしまう男の情けなさだった、と語っている。田中には、当たり役だった青大将のような大げさな芝居はやめてほしいと注文した。田中は初めは不満を口にしたが、最後にはしっかり応えてくれたという。人生は近くで見れば悲劇でも、遠くから見れば喜劇だというチャップリンの言葉を引いて、田中の芝居は悲劇的な状況に置くほど喜劇になった、とも話している(デイリースポーツ)。
下げられかけたラーメン
7月27日の取材で、倉本は、バブルを境に日本人の暮らしはがらりと変わり、本来変える必要のなかったものまで手放してしまった、と話している。コンビニがあちこちにでき、誰もが携帯電話を、今ならスマホを持ち歩くようになった。テレビも番組に金をかけるのが当たり前になり、真剣に考えずに金を使うようになって、ドラマはつまらなくなったという(週刊文春)。
倉本には、ドラマを書くときに見返す巻物の創作ノートがある。本人が虎の巻と呼ぶもので、1926年からの国内外の出来事や世相、流行、音楽、映画、テレビ番組、コマーシャルまでが書き込まれている。それをたどっていくと、バブル期を境に暮らしが一変したのがわかる、という(週刊文春)。
『北の国から』も、その流れと無縁ではなかったと倉本は認めている。シリーズが続くうちに制作費は膨らみ、そのおかげで良くなった面もあった。ただ、金をかけなければ質が落ちたかといえば、そうは思わない。バブルの前、初期のスタッフには並外れた熱意と智恵があったからだ、と(週刊文春)。
大事なのは金をかけない工夫で、知識より智恵で生み出すことだ、と倉本は語った。その例として、創意にあふれた場面に挙げたのが、1984年のスペシャル『北の国から’84夏』で、五郎一家がラーメン店で夕食をとる場面だ(週刊文春)。
閉店の時間が迫っている。早く店を閉めたい店員が、純がまだ食べ終えていない丼を下げようとする。そこで五郎が声を荒らげる。
「子供がまだ食ってる途中でしょうが!」
店員の側に立てば、閉店の時間を守ろうとしただけだ。仕事の段取りとしては、筋が通っている。それでも五郎は、食べている途中の子どもから丼を取り上げることを許さなかった。
倉本がこの場面を挙げたのは創意の例としてだが、それは急かされる子どもを父親がかばう場面でもあった。
21年かけて大人になる
『北の国から』は、1981年10月から翌年3月まで連続ドラマとして全国で放送されたあと、続編のスペシャルが2002年まで計8本作られた(北海道新聞)。21年のあいだ、主な役を同じ俳優が演じ続けた(週刊女性)。純と螢については、俳優本人の成長に合わせて倉本が当て書きした部分も多い、とライターの佐野華英は書いている(文春オンライン)。
小学生だった純と螢は、スペシャルが作られるたびに少しずつ大人になり、仕事や恋愛、結婚までが描かれていった。壮年だった五郎も、最後には60代の後半になっていた。メディア文化評論家の碓井広義は、視聴者が黒板一家を身内や近所の家族のような気持ちで見守ってきたとして、この「時間の共有」と、登場人物と並んで歩くような感覚を、ドラマの大きな魅力に挙げている(現代ビジネス)。碓井は、五郎の生まれ年が倉本と同じ1935年に設定され、40代で富良野に住み始めた点も重なることから、五郎を倉本の分身とも書いている(同)。
佐野は、このドラマを入り口は広く奥行きは深い娯楽作品だと評し、ほのぼのとしたホームドラマに見えて、実は生々しく人間の業を描いた作品だと書く。富良野と東京を対比させながら、人はどう生きるべきかを問い続けたドラマであり、21年の歳月をかけて、純はようやく心の中で父を素敵だと言えるようになる、と(文春オンライン)。
スペシャルは数年おきに作られた。視聴者は、そのたびに数年ぶんの成長を一度に見ることになる。その数年は、ドラマの外で本当に流れていた時間だ。今は配信でドラマを速めて見ることもできる。マーケティング・リサーチ会社のクロス・マーケティングが2024年3月に全国の20〜69歳の1,100人に尋ねた調査では、動画を倍速で見た経験がある人は47.0%で、倍速で見ている動画の1位はドラマだった。一方で、倍速視聴への意識として最も多かった答えは、倍速で見るものと見ないものを分けている、だった(クロス・マーケティング)。数年おきに届いた黒板家の時間は、再生の速さを変えても縮まらない。
撮影の現場も、手間をかけることをいとわなかった。そもそもこのドラマは、東京の人が思い描く北海道を書いてほしいというプロデューサーの注文に倉本が腹を立て、北海道の人が見て本物だと感じるドラマを書こうと決めたところから始まっている(週刊女性)。それらしく見えればいいというテレビ局の意向に抵抗して、本物にこだわった経緯も伝えられている(文春オンライン)。倉本は、純と螢に実際に石を運ばせ、たき火もさせていた(日刊ゲンダイ)。
2002年でシリーズが終わったあとも、倉本は黒板家のその後を考え続けていた。2021年には、放送40年に合わせた新作の台本を7稿まで書いたものの、事情があって映像化できなかったと明かしている(現代ビジネス)。2025年の取材でも、続編をめぐる構想を語っていた(週刊文春)。
見る側も、時間を重ねてきた。放送40年にあたる2021年10月9日には、富良野で倉本や中嶋朋子、さだまさしらが登壇するトークショーが開かれ、3,000人を超える応募から抽選で選ばれた650人が集まった(現代ビジネス)。その半年前、田中邦衛の訃報に際して、倉本は、自分の中では五郎は今も富良野で暮らしていて、町なかでふいに田中に肩をたたかれるような気がすることがある、と語っていた(デイリースポーツ)。
台本の裏の落書き
その手間のかかる現場を、子役たちはどう受け止めていたのか。日刊ゲンダイに連載された倉本と碓井の対談では、純を演じた吉岡秀隆が子役のころ、台本の裏にこう書いていたという話が紹介されている(日刊ゲンダイ)。
「杉田死ね!倉本死ね!」
杉田は、演出を担った杉田成道のことだ。
シリーズが終わったあとも、二人の縁は切れなかった。2019年の夏、吉岡は約10年ぶりに富良野の倉本を訪ね、一緒に酒を飲んだ。その再会をきっかけに、倉本は書き上げていた『やすらぎの刻〜道』の脚本に手を入れ、吉岡の出る2話を一気に書き足した。吉岡は、読んで鳥肌が立つほどだったと話している(ORICON NEWS)。
子役だった吉岡は、2026年には56歳になっていた。9月28日、倉本の訃報を受けて、吉岡は短いコメントを出している(デイリースポーツ)。
「倉本先生と出会えたこと、神様に感謝します」
台本の裏に書いた言葉と、訃報に寄せた言葉。そのあいだには、21年の撮影と、そのあとも途切れなかった長い時間がある。
「決して古びてない」
2025年8月11日から、連続ドラマ版の全24話が、フジテレビの昼の「ハッピーアワー」枠で関東ローカルとして再放送された(ナタリー)。佐野華英は、放送から40年以上がたった今も輝きを失わず、むしろ今だからこそ刺さるメッセージを発していた、と書いている(文春オンライン)。再放送はそこから系列局に広がり、10月6日の時点で、始まったか決まった局は9局、17都道県にのぼった(週刊文春)。同じ10月6日からは、舞台となった北海道でもUHBで放送が始まり、平日の午後に2話ずつ(金曜は1話)流された(北海道新聞)。
当時90歳の倉本は、週刊文春の取材に、再放送はありがたく、見ていると当時の自分の気持ちの揺れがわかって新鮮に感じることが多い、と話している。そのうえで、こうも言った。
「決して古びてないんです」
こうした作品がテレビで改めて取り上げられないことに、強い不満を抱いていたとも明かしている(週刊文春)。
石を運ぶ子役、本物のたき火、数年おきに届いたスペシャル。このドラマは、そういうものでできている。
暗転のあとで
8月9日の富良野演劇工場に戻る。
五郎の声が流れたあと、さだまさしが率いる「北の国から スペシャルバンド」が、メインテーマ「北の国から~遥かなる大地より~」を奏で、舞台はゆっくりと明るくなった。背後のスクリーンには、富良野の自然とドラマの場面が映し出された。1曲目のメインテーマはギターだけで、あの有名なハミングはなかった。続いて、子どものころの純の映像とともに、さだのバイオリンを中心に「純のテーマ」が演奏された。螢を演じた中嶋朋子も出演し、さだは客席に、放送開始から45周年になることを伝えた(ORICON NEWS)。
さだがこのメインテーマを作ったのは、放送前年の1980年の冬、富良野の倉本の自宅でのことだった。さだ自身が、2021年に田中邦衛を悼む投稿でそう振り返っている。田中はこのテーマ曲を気に入り、とても大切にしてくれた、とも書いていた(映画ナタリー)。
公演の途中、舞台の上手に明かりが入ると、そこには倉本がいた。シリーズ最終作『2002遺言』で五郎が子どもたちに書き残した言葉を、作者自身が読み上げた。朗読が終わると舞台は再び暗くなり、拍手が鳴りやまなかった(公演レポート)。
さだは9月28日、倉本に最後に会ったのは、この8月9日の富良野演劇工場のステージだったと書いている(デイリースポーツ)。
公演の最後に、メインテーマがもう一度演奏された。今度はハミングが入り、客席も声を合わせて、会場全体の大合唱になった(公演レポート)。1曲目では聞こえなかったハミングで、その日の公演は終わった。
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