コンテンツにスキップ
番組要約を随時更新中
目次のサイト
目次のサイト
  • ホーム
    • 要約ページ
      • テレビ要約
      • ラジオ要約
  • お問い合わせ
  • 運営者情報
  • プライバシーポリシー
  • ホーム
    • 要約ページ
      • テレビ要約
      • ラジオ要約
  • お問い合わせ
  • 運営者情報
  • プライバシーポリシー
クローズ

検索

  • ホーム
  • お問い合わせ
  • 運営者情報
  • プライバシーポリシー
目次のサイト
目次のサイト
  • ホーム
    • 要約ページ
      • テレビ要約
      • ラジオ要約
  • お問い合わせ
  • 運営者情報
  • プライバシーポリシー
  • ホーム
    • 要約ページ
      • テレビ要約
      • ラジオ要約
  • お問い合わせ
  • 運営者情報
  • プライバシーポリシー
クローズ

検索

  • ホーム
  • お問い合わせ
  • 運営者情報
  • プライバシーポリシー
エンタメ

ボストンからの帰り道――渡辺貞夫、「世界のナベサダ」になるまで(連載「一心不乱の75年」第2回)

による 寝ても覚めてもエンタメ天国 a.k.a.エンゴク
2026年10月29日 1分で読める
0

1962年、日本の人気投票で1位になったばかりのアルトサックス奏者が、ボストンで学生になった。3年後に帰国した渡辺貞夫は、学んだ理論を日本の奏者に教え、ボサノヴァでブームを起こし、ブラジルへ、ケニアへと出かけていく。前回に続き、文化功労者に選ばれた93歳の歩みをたどる。今回は1962年から1984年まで、「世界のナベサダ」が生まれるまでの20年余りである。

目次

Toggle
  • ボストンの学生
  • 学んだものを、配る
  • 単身でニューポートへ、サンパウロへ
  • ケニアへの旅
  • カリフォルニアから武道館へ
  • 帰り道は、まだ続く

ボストンの学生

バークリー音楽院に入った渡辺は、教室で理論を学ぶだけでは終わらなかった。在学中から、チコ・ハミルトン、ゲイリー・マクファーランド、ガボール・ザボらと演奏し、アメリカの現場に身を置いたのである。

1965年には、もう1つの出会いがあった。セルジオ・メンデスの音楽を通じて、ブラジルの音楽に関心を持ったのだ。そして同じ年、渡辺は日本へ帰った。ジャズの理論と、アメリカの現場と、ブラジルへの関心。ボストンからの帰り道に渡辺が持っていた荷物は、この3つだったことになる。

学んだものを、配る

帰国した翌年の1966年、渡辺はカルテットやセクステットを組んで活動を始めると同時に、日本のミュージシャンにジャズの理論を教えた。ボストンで手に入れたものを、自分だけの武器にしなかったのである。この年の6月には、日本コロムビアが「最高傑作」と紹介するアルバム『家路』を録音している。

1967年、渡辺は『JAZZ & BOSSA』を出した。日本で初めてのジャズ専門レーベル「TAKT」の第1作で、日本コロムビアによれば、日本のジャズのLPとして初めてのベストセラーになった。公式サイトの略歴は、このアルバムがボサノヴァのブームを起こしたと記している。同じ年の7月4日には、東京の新宿厚生年金ホールで全曲をボサノヴァで演奏し、その実況録音は『ボサ・ノヴァ・コンサート』として10月に発売された。

ボストンで関心を持ったブラジルの音楽が、2年後には日本で多くの人の耳に届いていた。学ぶ側から教える側へ、そして広める側へ。帰国から2年のあいだに、渡辺の役割は大きく変わったのだ。

単身でニューポートへ、サンパウロへ

1968年、渡辺は1人でアメリカのニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演した。同じ年の7月には、ブラジルのサンパウロで現地の奏者たちと録音し、その記録は『ブラジルの渡辺貞夫』として11月に発売された。関心を持ってから3年で、渡辺は自分の足でその音楽の生まれた場所へ行ったことになる。

1969年には、ニッポン放送でラジオ番組「ナベサダとジャズ」が始まった。いまも使われる「ナベサダ」という呼び名が、番組の題に入ったのである。1970年にはスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルに日本人のカルテットで出演し、チック・コリアらとアルバム『ROUND TRIP』も録音した。翌1971年には、ゲイリー・ピーコックらと『PAYSAGES』を録音している。

もっとも、渡辺の旅はアメリカやヨーロッパのジャズの本場だけに向かったのではなかった。

ケニアへの旅

1972年、渡辺は初めてケニアを旅した。そして、その年のうちに、アフリカのリズムの影響を受けたアルバムを録音している。同じ1972年にはFMのラジオ番組「渡辺貞夫マイ・ディア・ライフ」も始まり、この番組は17年続いた。1975年には、映画音楽をつくるために再びアフリカを旅している。

ジャズの理論を学びにボストンへ行き、ブラジルの音楽に出会い、今度はアフリカへ向かった。行き先はばらばらに見える。しかし、ここから先は筆者の見立てだが、どれも「まだ自分の中にない音」を探しに行く旅だったという点で、渡辺のやり方は一貫していた。渡辺は写真家としての顔も持ち、『アフリカン・ウィンド』などの写真集も出している。

1977年、渡辺はデイヴ・グルーシンやリー・リトナーらと、アルバム『MY DEAR LIFE』を録音した。この年、芸術祭大賞と南里文雄賞を受けている。

カリフォルニアから武道館へ

1978年、ロサンゼルスで録音した『CALIFORNIA SHOWER』が大きなヒットになり、渡辺はゴールドディスクを受けた。2年後の武道館の数字を見れば、その広がりがジャズの愛好家の輪を超えていたことがわかる。

1980年、渡辺は日本武道館でリサイタルを開き、公式サイトの略歴によれば3万人余りを集めた。その夜のライブ盤『HOW’S EVERYTHING』は、日本のアルバム・チャートで13位に入っている。同じ年には全米ツアーも行った。

そして1984年、アルバム『RENDEZVOUS』が、アメリカのビルボード誌のジャズ・チャートで2位に入った。ジャズを専門とする編集者・ライターの池上信次は、サライ.jpの記事で、この作品が28週にわたってチャートに入ったことにふれ、このころを「世界のナベサダ」が生まれた時期としている。同じ1984年、渡辺は故郷の宇都宮市から、第1回の市民栄誉賞を贈られた。

1962年にボストンへ渡った学生は、22年後、アメリカのチャートの上位に名前を載せていたことになる。そのあいだ、渡辺は一度もひとつの場所にとどまらなかった。

帰り道は、まだ続く

ボストンから帰った渡辺は、学んだものを配り、ブラジルとアフリカへ出かけ、そのたびに新しい音を持ち帰った。ここから先は筆者の見立てだが、「世界のナベサダ」という呼び名は、世界で売れたことだけを指すのではないのだろう。世界のあちこちへ自分で出かけていき、そこで出会った音を自分の演奏に取り込んだ人、という意味でも読めるからだ。

もっとも、物語はここで終わらない。1980年代の後半、渡辺はさらにブラジルへ深く入り、やがて子どもたちと一緒に演奏することに力を注ぐようになる。最終回は、50代から93歳のいままで、渡辺が何のために吹いてきたのかをたどる。


続き:第3回(最終回)「93歳の『終わりのない旅』」 https://mokujinosite.com/2026/10/29/2026-10-28
セルフ・プロデュースのアルバム、全米ジャズ・チャートの1位、ネルソン・マンデラの歓迎集会、そして世界の子どもたちとの共演。93歳の文化功労者が11月5日の自伝に「終わりのない旅」と記した、いまに続く40年をたどる。

連載「一心不乱の75年」

  • 第1回 焼け跡で聴いた明るい音――渡辺貞夫、93歳の文化功労者 https://mokujinosite.com/2026/10/29/2026-10-28_1/
  • 第2回 ボストンからの帰り道――渡辺貞夫、「世界のナベサダ」になるまで(この記事)
  • 第3回 93歳の「終わりのない旅」――渡辺貞夫、75周年の年に https://mokujinosite.com/2026/10/29/2026-10-28_3/

あわせて読みたい

  • 倉本聰の連載「追悼・倉本聰」 https://mokujinosite.com/2026/10/02/2026-10-02_1/
  • 伊東四朗の連載「観させていただき、聴かせていただきます」 https://mokujinosite.com/2026/10/12/2026-10-12_1/

新しい記事は、Xでお知らせしている。寝ても覚めてもエンタメ天国 a.k.a.エンゴク https://x.com/wannabeacking

投稿者

寝ても覚めてもエンタメ天国 a.k.a.エンゴク

フォロー
関連記事
前

93歳の「終わりのない旅」――渡辺貞夫、75周年の年に(連載「一心不乱の75年」第3回)

次へ

焼け跡で聴いた明るい音――渡辺貞夫、93歳の文化功労者(連載「一心不乱の75年」第1回)

コメントはまだありません。最初のコメントを投稿しましょう。

コメントを残す コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

このサイトについて

当サイトは、テレビ番組やラジオ番組のハイライトをサクッと読める要約まとめサイトです。Amazonのアソシエイトとして、目次のサイトは適格販売により収入を得ています。※本ページはプロモーションが含まれています。

検索

SNS

  • 答えを聞きに行った20年――村上龍、『カンブリア宮殿』と最後の「死&生」(連載「希望を探した作家」第3回)
  • 「希望だけがない」国を書く――村上龍、『コインロッカー・ベイビーズ』から『希望の国のエクソダス』まで(連載「希望を探した作家」第2回)
  • 基地の街から芥川賞へ――村上龍、『限りなく透明に近いブルー』まで(連載「希望を探した作家」第1回)
  • 93歳の「終わりのない旅」――渡辺貞夫、75周年の年に(連載「一心不乱の75年」第3回)
  • ボストンからの帰り道――渡辺貞夫、「世界のナベサダ」になるまで(連載「一心不乱の75年」第2回)

SNS


Xアイコン

noteアイコン

プライバシーポリシー

運営者情報

お問い合わせ

Copyright 2026 — 目次のサイト. All rights reserved. Blogsy WordPress Theme