札幌行きの飛行機から『北の国から』へ
倉本聰と「爆弾発言」の見出し
連載「追悼・倉本聰」全3回 第1回|第2回(この記事)|第3回
1974年6月、39歳の脚本家が東京でタクシーに飛び乗った。
向かった先は羽田空港で、そこから札幌行きの飛行機に乗った。ただ本人は後年、タクシーで羽田へ向かったことも、なぜ札幌行きの便を選んだのかも、何も覚えていないと語っている(週刊女性)。
脚本家の名前は倉本聰。その年、NHK大河ドラマ『勝海舟』の脚本を書いていた。準備を重ねて選んだ移住ではなかった。一冊の週刊誌の見出しが最後の引き金になった、逃避だった。
2026年9月18日に91歳で亡くなった倉本の訃報でも、この一件は繰り返し取り上げられた。スポーツニッポンは、『北の国から』誕生の裏に大河での大きな挫折があったと書いている(スポニチアネックス)。倉本自身が2015年に日本経済新聞で連載した「私の履歴書」にも、この札幌行きを〝逃避行〟と題した回がある(日本経済新聞)。
逃げたこと自体は、本人も隠していない。この記事で追いたいのは、その前に何が積み重なっていたのか、そして逃げた先で何が起きたのかだ。
本読みに通う脚本家
NHKから大河ドラマの依頼が届いたのは、倉本がニッポン放送を辞めてフリーになって10年目のことだ(週刊女性)。大河の脚本を任されるのは、脚本家にとって一つの勲章でもある。知らせを聞いた倉本の母は、赤飯を炊いて喜んだという(デイリー新潮)。
子母沢寛の小説を原作にした『勝海舟』は、1974年1月に放送が始まった。勝海舟に渡哲也、岡田以蔵に萩原健一、坂本龍馬に藤岡弘、という顔ぶれだった(デイリー新潮)。
倉本には、脚本家として譲れないやり方があった。役者を全員集めて台本を読み合わせる「本読み」に自分も立ち会い、セリフの言い回しや間を確かめる。ふつう、本読みに脚本家は呼ばれない(デイリー新潮)。倉本はそれを脚本家の務めと考え、毎週NHKに通った(産経新聞)。
演出家たちは、これを自分たちの領分への踏み込みと受け止めた。倉本が引き揚げたあとで、演出家が台本を直すこともしばしばあったという(産経新聞)。
倉本の関わり方は、本読みだけにとどまらなかった。勝海舟の父・小吉の役には、歌舞伎の尾上松緑を望んだ。NHKが頼んで断られたと聞くと、倉本は松緑に会い、どうしても演じてほしいと土下座して頼み込んだという(碓井広義「倉本聰 ここだけの話」)。小吉は松緑が演じている(ザテレビジョン)。
収録が始まってまもなく、主演の渡哲也が病気で降板する。代役の候補は松方弘樹だったが、当時売り出し中で大阪の劇場に出ていた松方を、NHKは押さえられずにいた。倉本自身の話によれば、彼は東映本社に乗り込んで岡田茂社長に直談判し、その足で新幹線に乗って大阪へ向かった。待っていた松方は、その場で引き受けたという(デイリー新潮)。ただ、松方は後年の聞き書きで、倉本から直接電話で打診されたと証言しており、細部は食い違っている(エキレビ!)。
大河を立て直した功労者だったわけだが、現場からは別の姿に見えていた。倉本自身はのちに、若いディレクターたちには出過ぎた振る舞いと映ったのだろう、と振り返っている。自分に仕事を頼んできたのは管理職のプロデューサーで、現場のスタッフは労働組合員だった。組合員と、外から来た脚本家のどちらを大事にするのかと、プロデューサーが詰め寄られたという(デイリー新潮)。当時のNHKは、労働組合の力が強い職場でもあった(産経新聞)。
溝は、両方の側から深まっていった。倉本は、台本が書き換えられていることを出演者の萩原健一から聞かされ、不信を募らせた。自分の意図を上回る解釈なら喜んで受け入れるが、断りなく変えられるのは気分が悪い。倉本は自伝『見る前に跳んだ』にそう書いている(エキレビ!)。
一方、演出陣の一人は後年、倉本は『勝海舟』を自分一人で作っていくつもりで、自分たちはチームとして、組織として作りたかった、と振り返っている。脚本どおりに映像にするのが演出なのか、という問いだった。倉本と何度も組んだNHKの演出家・大原誠は、毎週の収録に追われる演出陣が極端に忙しく、倉本と徹底的に話し合う時間が欠けていた、と書いた(エキレビ!、大原誠『NHK大河ドラマの歳月』より)。
どちらの言い分にも筋がある。
「爆弾発言」の見出し
火種になったのは、女性週刊誌『ヤングレディ』の記事だった。
産経新聞によれば、倉本が取材を受けた記事の原稿は、いつのまにかNHKを攻撃する内容に変わっていた。倉本は最終稿まで目を通して本文を直させたが、雑誌の広告に載った見出しは直っていなかった。
「倉本聰氏、『勝海舟』を内部から爆弾発言」(産経新聞)
週刊女性も、記事には目を通せたのに、真意をゆがめた見出しをつけられた、と書いている。本文は直ったのに見出しが残った、という筋書きは、どちらも倉本の側の説明に基づいている。
デイリー新潮の書き方は少し違う。同誌は問題の記事を「大河脚本家がNHK批判」というインタビュー記事として紹介しており、こちらを読むと、記事の中身そのものがNHK批判だったようにも取れる。当時の『ヤングレディ』1974年6月17日号を実際に読んだライターの近藤正高は、現場をねぎらう調子はあまり読み取れず、見出しがどうであれ結果は変わらなかった気もする、と書いている(エキレビ!)。
見出しの文言も、記録によって揺れている。産経新聞は上のとおり「を」と書き、週刊女性の記事では同じ箇所が「に」になっている。エキレビ!が紹介する新聞広告の見出しは、冒頭に倉本の名前がなく、末尾に感嘆符がついている。筆者は、当時の広告も記事も現物を確認できていない。
雑誌の発売日、NHKの局内は騒然となった(エキレビ!)。倉本は制作局長に会い、軽率だったとわびた。それでも、20人を超えるスタッフに囲まれ、責め立てられた(産経新聞、週刊女性)。味方をしてくれたのは二人だけだった。倉本は
「記事の内容をよく読んでくれ」
と頼んだが、取り合ってもらえなかった。悔しさと悲しさで涙が出た、と後年振り返っている(エキレビ!)。
前の日まで同じ現場にいた人たちの態度が一変したことに、倉本は愕然とし、パニックになったという(週刊女性)。気がついたときには、札幌行きの飛行機の中にいた。雑誌が出たその日のことだ(デイリー新潮、産経新聞)。
降りたのか、降ろされたのか
札幌に飛んだ倉本は、そのまま『勝海舟』を降りた。多くの記事はそう書いてきた。今回の訃報でも、産経新聞と日本経済新聞が〝途中降板〟という言葉を使っている。
ただ、倉本自身が碓井広義との共著『ドラマへの遺言』(2019年)で語った経緯は、少し違う。同書を紹介したデイリー新潮によれば、倉本は札幌に移ってからも脚本を書き続けていた。NHKがもう代わりの作家を立てているという話は、耳に入っていた。やがて、札幌でひとり飲み歩いた不摂生がたたって肺炎を患い、東京の病院に入院する。そこでNHKから、病気による降板ということにしようと持ちかけられた。書き続けていたのは、9月ごろまでだったという(デイリー新潮)。
週刊女性は、倉本が続きの脚本を札幌から郵送し、結局43回で降りたと書いている。エキレビ!も、10月27日放送の第43話まで脚本を郵送し続けたとしている。
デイリー新潮は同書の証言をもとに、倉本が自分から降りたのではなく、NHK側の都合で降ろされたというのが真相のようだ、と結んだ。同書を書評した映画監督の大根仁も、解雇に近い形で作品を離れたと書いている(文春オンライン)。一方、先の演出陣の一人は、倉本がスタッフに謝罪し、その代わりに降板するという最悪の形になった、と振り返っている(エキレビ!)。
自分から降りたのか、降ろされたのか、謝罪と引き換えだったのか。当時の関係者の証言を、筆者はすべて確かめられてはいない。どれが正しいかは、ここでは決められない。
少なくとも倉本自身の説明では、彼が実際に何を語ったかより、それがどんな見出しになったかが、人生の向きを変えるきっかけになった。そして半世紀後、その結末までもが、いくつもの言い方に割れている。
本文を読んでも、見出しは残る
見出しが記憶や判断に影響することは、心理学の実験でも示されている。
2014年、西オーストラリア大学の心理学者ウルリッヒ・エッカーらは、ニュースの見出しが読者に与える影響を調べた論文を、学術誌『Journal of Experimental Psychology: Applied』に発表した。実験の参加者は、同じ本文の記事を、主旨に沿った見出しか、本文の一部だけを強調した見出しのどちらかで読む。
たとえば、空き巣の件数は10年でみると1割ほど減っているが、直近の1年だけわずかに増えた、という記事がある。そこに〝空き巣が増えている〟という見出しをつける。本文にうそは一つもない。
結果は、記事の種類によって分かれた。事実を伝える記事では、ずれた見出しで読んだ人は、主旨に沿った見出しで読んだ人より、本文の細部を正しく思い出せなかった。ただし、記事から何を読み取るかという判断のほうは、ゆがまなかった。意見を述べる記事では、ずれた見出しが、読んだ人の判断そのものを引っ張った(Ecker et al., 2014)。
この研究を紹介したThe New Yorkerの記事は、ずれがあからさまな見出しより、目立たない見出しのほうが害が大きいようだ、と指摘している。ずれがあからさまなら、読者は本文を読みながら気づいて補正できる(The New Yorker)。
もっとも、それは本文を読んだ場合の話だ。雑誌の広告は、その雑誌を買わない人の目にも入る。広告しか見ない人には、本文の中身は最初から届かない。今でいえば、記事へのリンクを押さない人のタイムラインに、見出しだけが流れてくるのに近い。
札幌の旅館で
千歳空港に着いた倉本が最初にしたのは、旧知の北海道放送のディレクターへの電話だった。用意してもらったのは札幌の植物園の近くの旅館で、倉本は人目につかない奥の部屋に落ち着いた(日本経済新聞「私の履歴書」)。
それからは、毎晩のように飲み歩いた。バーテンダー、単身赴任の会社員、板前。業界の人間とばかり付き合っていた東京とは違って、仕事の利害が絡まない人たちと親しくなった(週刊女性)。
週刊女性の記事は、このころの倉本の胸の内を、
(もう脚本家としては終わりだな……)
と書いている。書きたい話はたまっていくのに、仕事は来ない。夏が過ぎ、秋になるころ、東京にいる妻から、貯金が7万円しかないと告げられた。トラックの運転手になろうと腹をくくった直後、フジテレビのプロデューサーが札幌まで訪ねてきた(週刊女性)。
そうして書いたのが『6羽のかもめ』(フジテレビ系、1974年)だ。札幌の旅館を探し当てたフジテレビのプロデューサーとディレクターから頼まれた仕事で、テレビ業界の内幕を描いた連続ドラマだった(エキレビ!)。視聴率こそ伸びなかったが、高い評価を受けた(週刊女性)。産経新聞は、そこにテレビ界への怒りと、それでも消えない思い入れが込められていたと評している。テレビの現場から逃げてきた人が、テレビの内幕を書いた。
ただ、時系列は証言によって少しずつ違う。週刊女性は、仕事の来ない日々のあとにフジテレビの依頼が来たように書く。デイリー新潮が紹介した倉本の話では、9月ごろまで『勝海舟』の脚本を書き続けていたことになる。『6羽のかもめ』の放送は、その年の10月に始まった(エキレビ!)。大河の執筆と、新しい連続ドラマの準備は、実際には時期が重なっていたとみられる。
札幌で暮らしたのは、結局3年ほどだった(デイリー新潮)。その間に、北海道を舞台にした『うちのホンカン』(TBS系、1975年)や、萩原健一主演の『前略おふくろ様』(日本テレビ系、1975年)が生まれている(週刊女性、allcinema)。『前略おふくろ様』は、萩原に何か書いてほしいと頼まれたのがきっかけだったという(エキレビ!)。
本読みに立ち会うやり方も、すぐに捨てたわけではなかった。『前略おふくろ様』では細かく立ち会い、役者に直接説明できていた、と倉本は後年の対談で語っている。ただ同じ対談で、『勝海舟』のあとは、演出家や監督に口を出すとうまくいかないという空気を感じるようになった、とも振り返っている(日刊ゲンダイ)。
時期ははっきりしないが、『ドラマへの遺言』には、『北の国から』の少し前のこととして、倉本が北島三郎の付き人をした話が出てくる。地方の体育館でのリサイタルで、北島は客席の老若男女一人ひとりと向き合うように歌っていた。その姿に打たれた倉本は、こう思ったという。
「俺は今まで誰に向かって書いてたんだろう」
そこから倉本は作風を大きく変え、それまでならドラマの主役にはなりにくかったような人物を書くようになった、と大根仁は書評に書いている(文春オンライン)。
札幌に移って2年目あたりから、倉本は本気で自分の居場所を探し、北海道中を歩き回った。行き着いたのが富良野で、1977年に移り住んでいる(デイリー新潮、マイナビニュース)。4年後の1981年、『北の国から』の放送が始まった。
主人公の黒板五郎は、傷ついて東京を離れ、北海道で暮らし始める男だ。大根仁は、この五郎に倉本自身がそのまま重なると評した(文春オンライン)。
後年、倉本はこの一連の出来事を失敗と呼び、それがのちに大きな肥やしになったと振り返っている(産経新聞)。
80歳を過ぎての持ち込み企画
2017年4月、テレビ朝日が昼の時間帯に新設した帯ドラマの枠で、倉本の『やすらぎの郷』(テレビ朝日系)が始まった。テレビの黄金期を支えたスターや業界人だけが入れる老人ホームを舞台にした物語で、石坂浩二、浅丘ルリ子、加賀まりこ、八千草薫らが顔をそろえた(週刊女性PRIME、ORICON NEWS)。
倉本の持ち込み企画だった(プレジデントオンライン)。倉本はかねて、高齢の視聴者に向けた番組が少ないと感じていた(週刊女性PRIME)。年を取ると朝が早くなるのに、テレビをつけても見たいドラマがない。そんな声を同世代から何度も聞いていた、と倉本は語っている(プレジデントオンライン)。
ただ、この企画書が最初に向かったのは、テレビ朝日ではなかった。倉本はまず、『北の国から』を一緒に作ってきたフジテレビに企画書を持ち込んでいる。真っ先にフジテレビへ出すのは「仁義だから」と倉本が話していたことを、碓井広義が証言している(日刊ゲンダイ)。
だが、フジテレビでは実現しなかった。倉本は、フジテレビでだめでも企画そのものは形にしたいと考え、石原プロモーションの元専務・小林正彦に相談して、テレビ朝日の早河洋会長につないでもらった(日刊ゲンダイ)。仲介した小林は、放送前の2016年10月に亡くなっている(同)。放送が始まると、作品は大きな話題を呼んだ(同)。
フジテレビは倉本の訃報に際して、『北の国から』をはじめとする作品を通じて自社のドラマ制作の発展に大きく貢献してもらったと、感謝のコメントを出している(マイナビニュース)。
呼ばれて来た土地
1974年の倉本は、たしかに札幌へ逃げた。逃げた先で、利害の絡まない飲み仲間と出会い、『6羽のかもめ』と『前略おふくろ様』を書き、誰に向かって書くのかを問い直した。富良野に移ったのは、札幌に飛んでから3年後のことだ。
倉本は著作の中で、富良野についてこう振り返っている(日本経済新聞)。
「富良野に呼ばれて来た気がする」
羽田へ向かったタクシーのことを、倉本は何も覚えていないと語った。たどり着いた土地のことは、呼ばれた気がすると書き残した。
次回は、その富良野で書かれた『北の国から』と、倉本の最後の夏について書く。
◀ 前の回 第1回 倉本聰?「たいしたやつじゃありませんでした」──部長にそう報告したのは、本人だった
次の回 ▶ 第3回 「夜になったら眠るンです」──電気のない家で五郎が答えた一行と、『北の国から』の45年
連載「追悼・倉本聰」全3回
- 第1回 倉本聰?「たいしたやつじゃありませんでした」──部長にそう報告したのは、本人だった
- 第2回 札幌行きの飛行機から『北の国から』へ──倉本聰と「爆弾発言」の見出し(この記事)
- 第3回 「夜になったら眠るンです」──電気のない家で五郎が答えた一行と、『北の国から』の45年
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