「希望だけがない」国を書く――村上龍、『コインロッカー・ベイビーズ』から『希望の国のエクソダス』まで(連載「希望を探した作家」第2回)
1980年、28歳の村上龍は、長編『コインロッカー・ベイビーズ』を出した。その20年後には、いまも公式の紹介文に「この国には何でもある。だが、希望だけがない。」と掲げられる長編を世に送ることになる。日本が好景気を迎え、やがて長い停滞に入っていく20年のあいだに、村上龍は何を書き、どこまで仕事を広げたのか。前回に続き、10月17日に74歳で亡くなった作家の歩みをたどる。
年表 1980〜2002
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1980 | 10月、『コインロッカー・ベイビーズ』を講談社から出す |
| 1981 | 『コインロッカー・ベイビーズ』で野間文芸新人賞を受ける |
| 1983 | 映画『だいじょうぶマイ・フレンド』を脚本・監督で撮る |
| 1987 | 『愛と幻想のファシズム』『69 sixty nine』を出す。エッセイ『すべての男は消耗品である。』の単行本が出始める(2018年まで全12巻)。10月、TBS系『Ryu’s Bar 気ままにいい夜』のホストになる |
| 1988 | 『トパーズ』を出す |
| 1992 | 映画『トパーズ』を脚本・監督で撮る |
| 1994 | 3月、『五分後の世界』を幻冬舎から出す |
| 1995 | 小説『KYOKO』を出す |
| 1996 | 映画『KYOKO』(原作・脚本・監督)が公開される。『村上龍映画小説集』で平林たい子文学賞を受ける |
| 1997 | 『イン ザ・ミソスープ』を出す(1998年に読売文学賞) |
| 1999 | 11月、編集長を務めるメールマガジン『JMM』の内容が、『JMM 金融経済のヌーヴェル・ヴァーグ』として本になる |
| 2000 | 『共生虫』で谷崎潤一郎賞を受ける。7月、『希望の国のエクソダス』を出す。芥川賞の選考委員になる(2018年まで) |
長編と映画の行き来
1980年10月、『コインロッカー・ベイビーズ』が講談社から出た。時事通信の訃報によれば、乳児遺棄事件をモチーフにした作品で、村上龍は翌1981年、この作品で野間文芸新人賞を受けた。
1983年には、監督として2本目の映画『だいじょうぶマイ・フレンド』を撮っている。小説を書き、映画を撮り、また小説に戻る。デビューから10年もたたないうちに、その行き来は村上龍の仕事の形になっていた。日本大百科全書は、この時期の村上龍が『野性時代』『写楽』『プレイボーイ』『ブルータス』などの雑誌にも活動を広げたことについて、芥川賞作家として前例がなかったと記している。
1987年、深夜のバーで
1987年、村上龍は『愛と幻想のファシズム』と『69 sixty nine』を相次いで出した。エッセイ『すべての男は消耗品である。』の単行本もこの年から出始め、シリーズは2018年までに全12巻を数えている。同じ年の10月からは3年半にわたって、TBS系の日曜深夜のトーク番組『Ryu’s Bar 気ままにいい夜』でホストを務めた。
日刊スポーツの小谷野俊哉は追悼記事で、無口でこびを売らない村上龍とゲストのやり取りがバラエティーのネタにされることもあったが、村上龍は自分のスタイルを崩さなかった、と書いている。ゲストとして招かれた1人が佐野元春で、佐野は今回の追悼文でも、この番組に呼ばれたことにふれていた。
ここから先は筆者の見立てだが、のちに『カンブリア宮殿』で経営者の話を聞く村上龍は、この深夜のバーの番組で、すでに聞き手として客を迎えていたことになる。翌1988年には『トパーズ』を出した。
「本当は日本に元気がある」
この時期の自分の小説について、村上龍はのちに率直な言い方をしている。2015年2月11日、テレビ東京ビジネスフォーラムのトークショーで、村上龍は「アナーキーな小説を書いているときって、本当は日本に元気があるんですよ」と語った。バブルのころがいちばんめちゃくちゃな小説を書いていた、とも振り返っている。
つまり本人の言い方に従えば、アナーキーな小説は、日本に元気がある時代のものだった。それなら、その元気が失われたとき、村上龍の小説は何を書くことになるのか。これが、第2回の後半と第3回をつらぬく問いになる。
映画とキューバ、そして新しい出版社
1990年代に入っても、村上龍の仕事は外へ広がり続けた。1992年には自作の『トパーズ』を映画にし、1996年には、前年に小説として出していた『KYOKO』を、原作・脚本・監督の映画として公開した。主演の高岡早紀は今回の追悼の投稿で、キューバやニューヨークでの撮影を振り返っている。世界大百科事典も、村上龍が文学だけでなく、キューバ音楽の紹介など多方面で活躍したと記している。
1994年3月、村上龍は小説『五分後の世界』を幻冬舎から出した。幻冬舎の沿革によれば、同社が単行本6作品で書籍の刊行に乗り出したのは、この年の3月25日のことである。書籍を出し始めたその年に村上龍の小説を出した出版社が、30年余りのちに、村上龍事務所と連名で訃報を出したことになる。
文芸誌の外へ
1997年には『イン ザ・ミソスープ』を出し、翌1998年に読売文学賞を受けた。1999年11月には、メールマガジン『JMM(ジャパン・メール・メディア)』の内容が、日本放送出版協会(いまのNHK出版)から本になった。題名は『JMM 金融経済のヌーヴェル・ヴァーグ』で、このメールマガジンの編集長は村上龍である。
雑誌、テレビ、映画、そしてインターネットのメールマガジンと、村上龍は書く場所を次々に増やしていった。筆者には、金融と経済の言葉で日本を見るこの仕事が、次の長編と、20年続くテレビの仕事への入り口だったように見える。
「希望だけがない」
2000年7月、『希望の国のエクソダス』が文藝春秋から出た。月刊『文藝春秋』に連載された長編で、出版社の作品紹介によれば、2002年6月に一斉に集団不登校を始めた中学生たちが、ネットビジネスを展開して日本の金融危機を救う物語である。
執筆にあたって、村上龍は現役の中学生や教育関係者、官僚、為替ディーラーらに取材を重ねた。その記録は、同じ年の9月に『「希望の国のエクソダス」取材ノート』として本になっている。同じ2000年には『共生虫』で谷崎潤一郎賞を受け、芥川賞の選考委員にも加わった(2018年まで)。
村上龍の電子書籍の公式サイトは、この作品の紹介文に「この国には何でもある。だが、希望だけがない。」という言葉を掲げている。今年10月23日の日本経済新聞の訃報の解説も、登場人物の言葉として、中略を挟みながらこの一節を引いた。佐野元春は追悼文で、村上龍の小説には「個人の痛みを都市や国家のあり方へと広げていく、独特の主題があった」と書いている。
小説の物語が始まる2002年は、現実の日本でも、完全失業率が年平均5.4%と、統計の上で過去最高を記録した年になった。もっとも、小説が出たのは2000年であり、この重なりを予言と呼ぶのは後づけだろう。確かなのは、四半世紀前の小説が、その訃報の解説で、閉塞感を抱える日本の問題を指摘した作品として紹介されたということなのだ。
出ていく物語のあとで
ここから先は筆者の仮説だ。『希望の国のエクソダス』の中学生たちは、学校から出ていくことを選んでいる。題名のエクソダスは「脱出」を意味する言葉だが、出ていくことのできない大人たちには、また別の答えが要るはずである。
バブルのころにはアナーキーな小説を書き、停滞に入った国を描いた長編では、登場人物に「希望だけがない」と語らせた。そして村上龍は、このあと答えを小説の中だけで探すのをやめ、働く人たちに直接聞きに行くことになる。
続き:第3回(最終回)「答えを聞きに行った20年」 https://mokujinosite.com/2026/10/29/2026-10-28_6/
51歳でつくった職業の図鑑『13歳のハローワーク』、2006年に始まった『カンブリア宮殿』の20年、延べ1,000人を超えるゲスト、そして最後の出演で書いた「死&生」の3文字。村上龍が経営者たちに聞きつづけたものをたどる。
連載「希望を探した作家」
- 第1回 基地の街から芥川賞へ――村上龍、『限りなく透明に近いブルー』まで https://mokujinosite.com/2026/10/29/2026-10-28_4/
- 第2回 「希望だけがない」国を書く――村上龍、『コインロッカー・ベイビーズ』から『希望の国のエクソダス』まで(この記事)
- 第3回 答えを聞きに行った20年――村上龍、『カンブリア宮殿』と最後の「死&生」 https://mokujinosite.com/2026/10/29/2026-10-28_6/
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