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エンタメ

基地の街から芥川賞へ――村上龍、『限りなく透明に近いブルー』まで(連載「希望を探した作家」第1回)

による 寝ても覚めてもエンタメ天国 a.k.a.エンゴク
2026年10月29日 1分で読める
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2026年10月23日、幻冬舎は、作家の村上龍が10月17日に74歳で亡くなったと発表した。『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を受けた小説家であり、テレビ東京の『カンブリア宮殿』で20年にわたって経営者の話を聞いた人でもある。この2つの顔は、別々のものだったのか、それとも1本の道だったのか。デビューから50年の仕事を、3回にわたってたどる。

目次

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  • 10月23日の知らせ
  • 年表 1952〜1979
  • 基地の街の子ども
  • 丸刈りの1年生
  • 福生の夜と、美術大学
  • 24歳の芥川賞
  • 自分で撮った『ブルー』
  • 2つの基地の街から

10月23日の知らせ

幻冬舎が公式サイトに載せた「ご逝去のお知らせ」は、有限会社村上龍事務所と幻冬舎編集本部の連名で出された。それによると、村上龍は10月17日(土)に自宅で亡くなり、葬儀は家族葬ですでに執り行われている。死因は公表されていない。文書は弔問や供花を辞退し、遺族や近親者への取材を控えるよう求めていた。

文書は村上龍の仕事を『限りなく透明に近いブルー』から語り起こし、「時代のトップランナーとして疾走した」と結んでいる。同じ日にはテレビ東京が追悼のコメントを出し、木原稔官房長官も記者会見で「紡がれた言葉の数々は多くの読者に読み継がれ、人々の心に生き続ける」と述べた。小説の版元とテレビ局と政府が、同じ日に1人の作家を悼んだのである。

村上龍には、少なくとも2つの顔があった。1つは1976年、24歳で芥川賞を受けた小説家であり、もう1つは2006年から2026年3月まで『カンブリア宮殿』の聞き手を務めたテレビの人である。ここから先は筆者の見立てだが、この2つは転身ではなく、ひと続きの仕事だったのではないか。日本の行き止まりを小説で書き、その出口を、テレビで経営者たちに聞きに行った。この連載では、その見立てが本人の言葉や当時の受け止め方とどこまで重なるのかを確かめながら、50年をたどっていく。

年表 1952〜1979

年出来事
19522月19日、長崎県佐世保市に生まれる。本名は龍之助
1960年代後半長崎県立佐世保北高校に通う。高校時代のバリケード封鎖などが、のちの小説『69 sixty nine』に描かれる
1970年代上京して東京都福生市で暮らす。武蔵野美術大学に進む(のちに中退)
1976『限りなく透明に近いブルー』で第19回群像新人文学賞と第75回芥川賞(1976年上半期)を受ける。7月、単行本が講談社から出る
1977『海の向こうで戦争が始まる』を出す
1979自ら脚本・監督を務めた映画『限りなく透明に近いブルー』が公開される。主演の三田村邦彦はこれが俳優デビュー

基地の街の子ども

村上龍は1952年、長崎県佐世保市に生まれた。日刊スポーツの追悼記事が書くように、生まれ故郷の佐世保と、のちにデビュー作の舞台となる東京の福生は、どちらも基地の街である。

子どものころについては、本人の回想が残っている。『13歳のハローワーク』の公式サイトに載ったインタビューで、村上龍は、幼稚園の先生や周りの大人たちから、小さいころからサラリーマンには向いていないと言われていた、と語った。高度成長の真っ盛りだった小学生のころ、佐世保では工業高校を出た人は佐世保重工業に入ると決まっていて、自分で稼がなければと意識する子どもはあまりいなかったという。それでも自分は、何かで稼がなければいけないとずっと思っていた、と村上龍は振り返っている。

サラリーマンに向いていないと言われていた話は、のちに『13歳のハローワーク』にも書いた、と本人は同じインタビューで語っている。その本の話は、第3回に回したい。

丸刈りの1年生

1960年代の後半、村上龍は長崎県立佐世保北高校に通った。訃報を受けて長崎新聞の取材に応じたのは、1年生のときに同じクラスだった増本一也(増本石油社長)で、当時の村上龍を「ラグビーをしていて丸刈り頭でスポーツマンだった」と語っている。日本大百科全書によれば、高校では新聞部に籍を置き、エッセイも数多く書いていた。

もっとも、この高校時代は穏やかなだけではなかった。日刊スポーツの追悼記事は、自伝的な小説『69 sixty nine』(1987年)を、村上龍の高校時代のバリケード封鎖などを描いた作品として紹介している。生年から数えると、題名の1969年は、村上龍が高校3年生になった年だ。同級生の記憶に残るスポーツマンの姿とは、また別の高校時代である。

福生の夜と、美術大学

高校を出たあと、村上龍は東京都福生市で暮らした。長崎新聞によれば、佐世保の同級生だった坂梨修司(久田学園理事長)と牛島義亮(シネマボックス太陽社長)は、大学生のころに福生まで会いに行っており、坂梨は、外国人バーのような店で飲み明かしたのを覚えていると話している。

東京では武蔵野美術大学にも進んだが、のちに中退している。大学では絵も描いていたものの、本人によれば、食べていけるほどの腕はなかった。4年生になると父親も仕送りを止めると言い、「仕方がなくて、小説、書いたんですよ」と、村上龍は先のインタビューで語っている。長崎新聞によれば、こうして書き上げたデビュー作は、福生での体験をもとにしていた。

ここに、のちの村上龍を考えるうえで見逃せない点がある。本人の言葉では、考えていたのは、何をやって食べていきたいかではなく、どうやったら食っていけるかだった。50年に及ぶ仕事の出発点には、文学の言葉より先に、暮らしの問いがあったのである。

24歳の芥川賞

1976年、『限りなく透明に近いブルー』は第19回群像新人文学賞を受け、同じ年の第75回芥川賞(1976年上半期)にも選ばれた。幻冬舎の文書が書くとおり大学に在学中に書いたデビュー作であり、24歳の村上龍は、新人文学賞と芥川賞を同じ年に受けたことになる。

もっとも、受賞は歓迎の声ばかりではなかった。日本大百科全書によれば、江藤淳のように、この作品の芥川賞受賞と村上龍の作家としての存在そのものに異議を唱える評論家もいて、さまざまな論議を呼んだのである。

それでも、読者の反応ははっきりしていた。単行本は1976年7月に講談社から出てベストセラーになり、幻冬舎の文書によれば、単行本と文庫をあわせて約350万部に達している。翌1977年には、芥川賞を受けたあとの第1作『海の向こうで戦争が始まる』を出した。

自分で撮った『ブルー』

1979年、村上龍が自ら脚本と監督を手がけた映画『限りなく透明に近いブルー』が公開された。主演の三田村邦彦にとって、これが俳優としてのデビュー作である。三田村はスポニチに寄せたコメントで、撮影の10年後に当時の無礼をわびたところ、村上龍に「おまえらしくないから、気にすんなよ」と言われた、と振り返った。

20代のうちに、村上龍は小説と映画の両方で名前を知られる存在になった。映画は、このあとも長く仕事の柱の1つであり続ける。

2つの基地の街から

長崎新聞によれば、訃報が伝わった10月23日、県立長崎図書館の郷土資料センターは閲覧室に追悼のコーナーを設け、『限りなく透明に近いブルー』の冒頭部分の直筆原稿の写しなどを並べた。幻冬舎の文書がこの作品から語り起こしたように、故郷の長崎の図書館もまた、この作品から村上龍を振り返ったことになる。

佐世保と福生という2つの基地の街から出発した作家は、24歳で一気に世に出た。しかし本人の言葉に従えば、その出発点にあったのは、どうやって食べていくかという問いだった。ここから先は筆者の見立てだが、この問いは、形を変えながら最後の仕事まで続いていく。

1980年、28歳の村上龍は、長編『コインロッカー・ベイビーズ』を出す。次回は、豊かになっていく日本で村上龍が何を書いたのかを、『希望の国のエクソダス』までたどる。


続き:第2回「『希望だけがない』国を書く」 https://mokujinosite.com/2026/10/29/2026-10-28_5/
『コインロッカー・ベイビーズ』、深夜のトーク番組『Ryu’s Bar』、キューバ、経済のメールマガジン、そして「この国には何でもある。だが、希望だけがない。」と紹介された長編。好景気から長い停滞へ向かう20年に、村上龍が書いたものをたどる。

連載「希望を探した作家」

  • 第1回 基地の街から芥川賞へ――村上龍、『限りなく透明に近いブルー』まで(この記事)
  • 第2回 「希望だけがない」国を書く――村上龍、『コインロッカー・ベイビーズ』から『希望の国のエクソダス』まで https://mokujinosite.com/2026/10/29/2026-10-28_5/
  • 第3回 答えを聞きに行った20年――村上龍、『カンブリア宮殿』と最後の「死&生」 https://mokujinosite.com/2026/10/29/2026-10-28_6/

あわせて読みたい

  • 倉本聰の連載「追悼・倉本聰」 https://mokujinosite.com/2026/10/02/2026-10-02_1/
  • 渡辺貞夫の連載「一心不乱の75年」 https://mokujinosite.com/2026/10/28/2026-10-28_1/

新しい記事は、Xでお知らせしている。寝ても覚めてもエンタメ天国 a.k.a.エンゴク https://x.com/wannabeacking

投稿者

寝ても覚めてもエンタメ天国 a.k.a.エンゴク

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